今日もブログを閲覧していただきありがとうございます。
私は、うつ病回復期で22歳大学三年生のKitaちゃんと申します。HSS型HSEという”繊細さん”の中でも外交的で刺激を求めるタイプの人間です。
しかし、疲れやすさや、深く物事を考えるというHSP、繊細さんならではの特性も持っているため、周りの人にもなかなか理解されず、自分自身でも自分がわからない時がありました。うつ病を経て、少しずつ自分を知り、周りを知り始めた駆け出しの🐥ですが、同志である繊細さんや、その他の生きづらさを抱える人の居場所を少しでも作っていきたいと考えています。
まえがき
今回は、自分の宝物(心、身体、時間、お金)を何に使うか、鬱病になって死を間近に体験した私の観点からお話したいと思います。
この話を書こうと思ったきっかけは、昨日4年くらいお世話になっている美容師さんと、将来について、仕事の捉え方について雑談程度に話をしていて、
「素敵な考えだと思う」「応援してますね」
と嬉しいお言葉をいただいたため、生きづらさを抱えている人に、この情報が必要な人のもとに届いたらいいなと思い書くことにしました。
死を間近にしたとき
私が鬱病の「希死念慮(死にたいという気持ちがどこからとなく湧いてくる)」を体験していた時、
「自分の人生とは」「自分は何に興味があって、どんなことに嬉しさを感じるのか」「世の中嫌なことばかりなのか」
「生きていても仕方がないのではないか」「もっと心を強くしなくては」「将来もずっとこんな考え方で人生を終えるのか」
「心も身体も健康じゃないと、幸せは感じられない」「自分の幸せの基準は?」「外に出るのが怖い」「人と会うのが怖い」
「この身体で将来働いていけるのか?」「自分の存在自体が邪魔なのでは?』
主にこんなことを永遠と毎日考え続けて、思考以外の活動がほとんどできませんでした。
前まで当たり前に楽しめていた漫画や映画、音楽を聞く気にもなれず、親友の声でさえ今はしんどいと世間全体と距離をとっていました。
誰かに相談するにも、誰を頼っていいか、信頼していいかわからず。SNSの情報だけに頼っていました。
そんな時、気づいたのはお金や世間体を気にせず自分が心から、幼い時から好きだったものってなんだろう?
どんな人とならうまくやれていたのかな?自然体でいられていたのかな?
それが、その人が、自分が本当に求めていたものなのではないかということです。
自分の求めているものを満たす
身体の調子が良い時に、自分の心が落ち着いて、乱れないものを少しずつ始めました。
別のブログの記事で、自分の趣味についてお話しているのですが、それらもこの時期に見つけたものです。
- シールを集めて好きな場所に貼ること
- 絵を描くこと
- 文章を読んだり書いたりすること
- 友人と何気ない雑談で盛り上がること
- アニメや漫画を見ること
- 服を買いに行ったり、コーディネートを考えること
- 誰かのために貢献できる作業(ボランティアなど)
- 人の笑顔を見ること、笑わせること
- 温かい紅茶を楽しむこと☕︎
- 大好きな友人と話すこと
これらは、単体で、趣味としてやる分には商業的な価値はないのかもしれませんが、
私にとっては特別で、お金には絶対変えられない人生の中でも重要な宝物です。
これを見つけて、心地いいものに囲まれるようになると、
自然と心と身体が浄化されていくような形で、気づいたらうつ状態もかなり良くなっていました。
(一応まだ服薬中の身なので、油断はしないようにしています。)
心が求めるものは人それぞれ
私は前述したものに価値を置いていますが、人の数だけ、その価値がおかれるものは異なると思います。
スポーツや、その観戦、将棋や囲碁、パズルゲーム、BBQ、キャンプ、一人の時間、自然の中でぼーっと過ごす時間、動物と触れ合う時間など
みんなそれぞれ価値のあるものが違うと思います。
この価値は、他人の判断や、周囲の状況によって揺らぐものではありません。
見栄のために買った高級ブランドバッグや高級車、家、必死に稼いだお金、他人と比較して必死に鍛えたり整形をして整えた身体は、
死んだら何にも持っていくことはできません。死に際にはとてもどうでもいいことだったんです。
それよりも、自分の心が求めているもの、大事な友達や家族、楽しかった記憶や感情は失われません。そうしたものにこそ価値があるのかな
と、私はその時思いました。
値段の高さ、容姿の良さ=自分の価値 ではない
近年、整形が身近になり実際していらっしゃる方もいると思います。
私はそれが悪いことと言いたい、否定をしたいわけではありません。
しかし、一度整形をすると、今度は別の部分が気に入らなくなってもう一度、またここが気になるからもう一回
と、キリがなくなるとは思いませんか?自分が持って生まれた顔に対してコンプレックスがあって、それを無くそうと努力をすると、
そのコンプレックスを強めてしまう可能性があるんです。
私も重たい一重瞼が嫌で、高校生の後半から、大学生になって鬱病になるまでずっとアイプチや、アイテープ、を使って、
二重を作ろうと必死でした。それをしないと外に出て知り合いと言葉を交わすことでさえ怖かったくらいです。
鬱病初期には、涙が止まらないで、瞼の皮膚が乾燥しているのにさらにアイプチをしたことによって、
目の周り全体が化粧をしなくてもアイシャドウを塗っているように、あざができてしまいました。
メイクをするために、可愛くなるために、自分を、自分の大切な身体の一部である皮膚を傷つけてしまっていました。
うつ病が悪化した頃には、化粧も当然、外出もできなかったのでしなくなり、通院の際、入院している際も化粧ができませんでした。
しかし、化粧をしなくなったからといって周囲の反応はそれほど変わらなかったし、今もノーメイクで学校に来て友達と喋っていても全く問題ないです。
あとがき
今回は自分の限られた時間や、大切な心身を何に使うか、についてお話をしました。
私もまだ人と比べてしまうことはあるし、嫉妬をすることもあるけど、その力を努力や自己研鑽の糧にできています。
私が幸せになることが、自分を否定した、夢や希望を馬鹿にした人たちへの最高の復讐になる
と思って、今は日々自分にできることを淡々とやっています。
最後まで閲覧していただきありがとうございます。今日が皆さんにとって良い昨日よりも少しでも良い1日になりますように。